2025年12月14日日曜日

薔薇十字 rosenkreuz



 薔薇十字
rosenkreuz





2024年のmidnight crystal以後は映色が思うようにいかなくなった。陽射しが強くなりすぎて色が破綻するし、たまに綺麗に色が出ても、なにか同じことを繰り返して足踏みをしているようでトキメキがない。それでも予感だけはあったので時間を見つけては淡々と失敗と和紙の浪費を繰り返していた。それは月の明かりで暗い井戸を掘るような孤独な作業だった。


ある日海辺の薔薇を映色していたら、薔薇の横に十字の印字線が薄っすらと入っていたことに気づいた。それは理由のわからない偶然(エラー)で、意図したものではない。思い返すとたしかブラックインクが切れたのだけど、手元に在庫がなくて、そのままコピーを続けていくうちに、全体が赤っぽくなって、逆におもしろいのでコピーを続けて薪ストーブの熱で映色した。そのときはまだ十字線に気づいていなかったので、その上にいろんな色のカラーインクを薔薇に垂らして遊んでいた。


今はインクを補充して強力なヘッドクリーニングまでしてしまったので、色も元通りになって、当然ながら理由のわからない十字架は出なくなった。撮影しておけばよかったと悔やんだが、そのときはワクワクしていたのでこれが作品になるとは思っていなかった。上の写真はそのときの印刷の感じを後から再現したもの。信じてもらえないかもしれないけど、このなにもない空間にうっすらと十字架が浮かんでいた。そのときは自分でも気づかないくらい、うっすらと。

それから海辺の薔薇は一旦放置して、コピー機も正常に戻ったことだし、かねてから作りたいと思っていた薔薇十字の作品にとりかかった。

薔薇十字はかなり前から着想していたけれど、イメージをつかみ切れていなかった。資料を読んだりいろいろな図案を描いてはみたけど、しっくりこない。ある日シュタイナーの本を読んでいて、天啓のようにイメージが入ってきた。それははっきりとはしないが魂にも似た生きたイメージの塊で、ネットで調べたりAIに聞いて得られるような情報ではなかった。


予感のようなイマージュをもとにしてまず作ったのがこの作品。

赤い薔薇は血液によって到達されるものを示し、十字は人間の未来を示唆する。黒い木の十字架を取り囲む薔薇の花輪は、人間の進化の印、高次の世界に導く力。

伝統的な刺青、つまりタトゥーを参考にして描いた。わるくはないのだけど、既存のデザインを元にしているし、なにかに届いていないというのか、まだ先に何かある気がしていた。

そして先ほどの海辺の薔薇に十字架が浮かんでいたことに気づいた。興奮して(あわてて)すぐに藍色のインクでその線を辿ってから、映色してみた。画面を横から縦に変えたことで、薔薇が十字架によって立ち上がり、砂浜に落ちた花びらが涙のように見えた。重力と恩寵(血の赤と十字架)によって立ち上がるという意味において、人間の進化をも示唆しているし、死と生が支え合っているような高揚と美しさもある。なにかを超えた気がして『これだ』と確信した。


海辺の薔薇は実際にこの目で見た風景で、何度か作品にもしている。誰がやったのかは知らないが、たぶん弔いの意味で置いたものだろう。この世とあの世の境目のような波打ち際に置かれた薔薇の花は儚くて、とても個人的な儀式だろうに、なぜだか誰の心にも迫ってくるような普遍性(永遠)があった。


水晶や生命の樹(stay gold)はどちらも思いがけない偶然によって普遍性を獲得している。この作品もこちらが意図していなかったエラー、言い換えれば異常な事態からアイデアが生まれている。イマジネーションというのは、私たちが知らない世界からもたらされる。それは予定調和からは遠く離れた目の前にある異界、彼岸と此岸の境目にその徴(しるし)が現れる。

その徴(しるし)は、カーテンが風に揺られるようなごくわずかなもので、ほとんどの人は見逃しているような微細な霊の動き。巷に溢れる情報や常識や思い込みに振り回されていると、その機微を受け取ることはできない。自分を探すのに旅に出る必要はない。日常のほんのすこしだけズレた場所に、あなたが知らなかった世界がある。その秘密を知ると、今まで悩んでいたようなことは跡形もなく吹き飛ぶ。

映色+彩色という組み合わせも意図していなかったもので、これからの可能性を開いてくれた。この作品の一番気に入っている点は自分で作った気がしないところ。ヴェイユの脱創造。この言葉を誤解しないでほしい。創造を捨てるのではなく、自分自身(エゴ)が創造から離脱することによって神々の愛を引き寄せ、世界の創造を預かる。そのとき水平線のように平等に、すべての人々に永遠の門は開かれる。








2024年7月31日水曜日

midnight crystal


midnight crystal (自灯明)

外寸 168×220mm
窓寸 900×130mm



2024/7/26

この世の果てで水晶を清めていたら、虹の模様が変化しているのに気づいた。散らばっていた虹の破片が、中央の氷山にひとつにまとまっている。どういう意味かはわからないけど、とても力強くて麗しい。ずっと周りを飛んでいたアオスジアゲハは神の使いか。




7/28

妙に気になったので水晶の映色実験。朝から凄まじい虹が出てきた。太陽光に透かしてみると、この世の果てで見た模様にそっくり。映色作品まで現実とリンクしはじめている。



2022年の9月にも、水晶が白く発光する現象が起きていたのを思い出した。

とても不安定で、個体差が激しく、しかし魂に灯が灯ったような不思議な色だった。なにか感覚的に引っかかるものがあって、映色シーズン(春~夏)を過ぎても実験を継続していた。妙にグッときて心に刺さるのだけど、水晶が伝えようとしていることが、そのときはよくわからなかった。


しかしその頃大型の台風が来て、どこか断線したらしく、深夜から昼前まで停電したのだけど、困ったことはなにもなかった。外部情報から遮断されると、神様にも繋がりやすくなる。たまにはこういうのもいいよね、と現象を受け入れて目の前の自然を愛すれば、魂に灯が灯る。『闇が深ければ、内なる光で照らせばよい』それが釈迦の遺言、自灯明(midnight crystal)。

かげくらき 月の光をたよりにて しずかにたどれ 野辺の細道

2022/9と2024/7、なぜこの時期に水晶が灯ったのか、正直よくわからない。ただなんとなくわかるのは、水晶が伝えようとしていること。

高島野十郎「蝋燭」

魂に火を灯せ。その火が途絶えないように、灯し続けろ。その光はいつか自分(時)を越えて、誰かの深い闇も照らすことだろう。


数点を出品しております→shop










 

2024年3月31日日曜日

神龍/黄龍

2024年は辰年、辰年は一般的に大きなことが起こる年、「辰」は陽の気が動いて万物が振動する、動きが盛んになるということの象徴であるという。

そして2024年は甲辰(きのえたつ)。甲は十二支の最初の文字であり、物事のはじまりを意味している。この甲と辰が合わさる2024年は勢いよく活気溢れる年、上昇の勢いがあり、上昇していく年と言われている。

十二年に一度なのだし、なにか記念に新しい龍の作品を作ってみようと、昨年末からいろいろと試みたが、まったく納得いくものができない。なぜか龍を描こうとすると、線や形や色がわざとらしくなって気に入らない。描いては捨ててを繰り返し、とうとう嫌になってやめてしまった。他人が見てても、たぶん理由はわからないと思う。でも本人はなんとなくこのモヤモヤしたものの正体がわかっていた。

龍は幻獣であり、実在の動物ではない。イマージュそのものを描くには、内側から描かないと空々しくなる。物語が本質で、それを補う画力としてのアニメや漫画や映画ならそれでもよいが、本質から直接生まれ出る画(え)としては、此方から描くのではなく、彼方から来るのを待つしかない。

そしてすっかり諦めて、ただ自分が見たいものを自分のために作ろうとリスタートしてみると、なんだか楽になって、楽しんで作品を創ることができた。此方から強引に天岩戸を開けようとするのをやめて、すっかり諦めて肩の力を抜いて楽しそうにしていると、岩戸がすこしだけ開いて、創造神が顔を出してくれた。

具体的にいうと、以前作った 螺旋龍/双龍 を元に、重ね刷りと反転という二つのアレンジで映色してみた。すると納得できる作品ができた。難しいかと思っていた重ね刷りの神龍も、プリンターではなくハンコという手作業を組み合わせてイメージ通りに、黄龍 (こうりゅう)では黄金の蝶が舞いおりきてくれるという奇跡も起きてくれた(虫の知らせ)。陽射しが弱い季節だったので、神龍は薪ストーブによる炎の過熱で映色している。きっと火の神が力を貸してくれたのだろう。龍は水神だが、対極にある炎とは相性がよい。


 神龍
god dragon





黄龍
golden dragon



自分にとっての龍というのは、森の中にいたり、空に浮かんでいたりする色や形。空想でも妄想でもなく、絡まった蔦や、木の根っこ、空に浮かんだ雲や煙、ミミズや蛇、瀧や川の流れ、それらが組み合わさって内なる世界でひとつの意志を持ち、記憶の古層から生まれてくる自然神。一般的に龍は幻獣だが、自分の中には本物のリアリティとして実在する。



芸術はそれ(it)を表に現す方法して機能する。はっきりとした形ではないかもしれないけど、自然をよく観察して、見えない世界を創造してみてほしい。彼らはいつもそばにいる。

とここまで書いたときに突然大雨になり、雷鳴が轟いた。

昼間は夏のような陽射しの晴天だったのに。慌てて薪が濡れないように外に出ると、フラッシュのような一瞬の光が、天の瞬きのように暗闇の秘密を開示した。

敏感なカムイ(犬)は怯えて震えているが、なんだか雷鳴と雨の音がとても優しくて心地よい。こういうことは偶然ではないことを、経験として知っている。

それから一時間程度で止んだ雨。あまりにもあっけなく、あの激しい雷鳴はなんだったのか。龍使いねと言われたことがあるが、体感的にはまるで逆である。こちらの都合など無関係に使われている。それでいいし、それが望みだ。

※ shopにて購入可能です。〜4/15受付 4/16〜発送











2023年7月12日水曜日

ホワイトターラ/グリーンターラ


 ホワイトターラ
white tara


グリーンターラ
green tara







原画 紙に木炭





2023/6/29 午前中に一気にいい色が出た。最初のターラに虹がかかったとき、今日はいけると確信した。いまだに映色の条件は不明だけど、湿気が影響してるのかも。あとは天体、星の影響だけど、これは無意識に任せるしかない。とにかく頭で考えててもダメで、やってみないとわからない。だからおもしろい。


グリーンターラはまだすこし未完成、でもなにか強いポテンシャルを感じる。人はそれぞれに宇宙があり、恐るべきポテンシャル(可能性)を秘めている。その秘められた姿が、観音様の涙に現れている。

グリーンターラのイメージは蛍の光。映色はすごくデリケート。蛍の明滅のように、一枚の成功(出現)の奥に、幾多の失敗(消滅)がある。


映色を難しい順に並べると、黄金の樹(もう不可能)→無意識の海→水晶&自燈明→不動明王→バタフライエフェクト→螺旋龍→生命の樹→今のところ、お釈迦さまとホワイトターラが安定して出てる。ちなみに映色(はしょく)とは造語。偶然できたオリジナルの方法だから、自分で名前をつけるしかなかった。

自然に描いてもらうという方法は、探せばいくつかあるかもしれないけど、映色は世界で自分だけだと思う。こういう自分にしか出来ないことをしてると、たとえ誰からも評価されなくても、プライド(矜持)が満足する。これが魂を喜ばせる方法。矜持という器に、魂は満たされている。

自分にしかできないことというのは、なにか人とは違う特別なことをするという意味ではない。一匹の子猫を救うことも、その人にしかできないこと。基準を他人や世間や常識に委ねないで、自分自身の答えを探せばいいだけ。プライドのない人に、魂は満たされない。







2022年7月10日日曜日

釈迦如来/不動明王


釈迦如来坐像
buddha


不動明王坐像
fudou




映色って不思議で、どんなモチーフでも写真をそのまま使うと綺麗に色が出ないのだけど、絵に描いてから映色すると、まるで生きているみたいに内側から色が滲み出てくる。一枚目が写真をそのまま印刷して映色したもの、二枚目が絵に描いてから映色したもの。見た目や条件が同じでも、これだけ差がある。


自分の手で線を描いていないと、祈りが届かないらしく、創造の神々は手を貸してくれない。デジタルデータに変換された後でも、ただ外側から見ることと、内側から描くことの違いは顕著に現れる。つまり精神は物質を超越していて、嘘や誤魔化しは通じない。


そしてあとから気づいて驚いたのは、原画は笑っていないのに、易紙に刷って映色した方のお釈迦様は、微笑んでいるように見えること。映色すると、すべてこうなる。不思議。



不思議(wonder)+いっぱい(ful)=素晴らしい(wonderful)。



陽射しの強いある日、火炎光背を背負った姿が現れた。budda→fudoへ。お釈迦様は不動明王に化身した。






 

螺旋龍/双龍


螺旋龍 阿
spiral dragon a

木材にガラス

  外寸 150×185mm
内寸 93×130mm



螺旋龍 吽
spiral dragon un

木材にガラス

  外寸 145×182mm
内寸 93×130mm





双龍
twin dragon

特殊加工樹脂フレームにガラス

  外寸 136×173mm×2
内寸 82×120mm×2












数年前から近所の里山のゴミを拾うようになった。投げ捨てが多い場所とは、つまり人目につかない場所。こういう場所ほど山の気は強く、神の視線を強く感じるのは不思議。なにもかもを見通すこの視線を浴びたくて、山の死角を散策してゴミを拾っていたら、蔦が何重にも絡まった一本の樹と巡り合った。蔦が珍しいわけではないけど、その絡み合いに強い生命力を感じて、なぜかその場から動けずにいた。それから何度も通ってスケッチした。





鉄媒染剤(お歯黒液)を染みこませた忌部紙に雨を打たせて、その上に蔦を描いていたら、描くつもりもなかった龍が絵の方から自然に浮き出てきた。螺旋を描きながら天地を昇降するエネルギー、それが龍であることを、無意識は知っていたのだ。





ある日、ふと思いついて描いた絵を易紙に刷って、残雪で映色してみたら最初の数枚から虹彩が出た。自分から生み出すのではなく、向こうから来る兆しを受け止めて自然に委ねると、精神と自然はひとつになろうと欲して渦を描く。色彩はその狭間に現れる虹。

その日は満月だった。きっと月の力で目覚めたのだろう。





春が来て、雨水による映色。陽射しを浴びて虹色に舞う双龍、二つの世界にまたがって広がる美しい幻影に見とれた。




何度も通ってモチーフと心を通わせるように、何度も実験を繰り返した。雨水と太陽の力を借りる映色実験は、うまく映える条件が不明で、今のところただ繰り返しやってみるしかない。突然よく虹が出たのは5/5周辺と6/21の夏至の日の周辺。個人的には宇宙線か暦が影響していると思うけど、気温も湿度も紫外線とも言えなくて、とにかくままならない。でもこういう自分ではコントロールできないのがいい。こうすればこうなるという予定調和よりも、どうなるかわからないようなトキメキ。本人がわくわくしていないと、無意識の力は起動しない。





数えきれないほど龍が溜まったけど、じつのところ9割は作品としては自立できない。その中の1割からも、これはなんか違うなぁと省かれて、はじめて作品は世に出ていく。この最後の1割から選ばれていく作業は、内的なものなので、他人が見ても基準がわからないと思う。無意識の海に沈んだ水晶のように、目には見えていない部分の方が本質。ただ作品とは、その人の内に眠る潜在力(龍)を目覚めさせる光であればいいのだ。