2024年3月31日日曜日

神龍/黄龍

2024年は辰年、辰年は一般的に大きなことが起こる年、「辰」は陽の気が動いて万物が振動する、動きが盛んになるということの象徴であるという。

そして2024年は甲辰(きのえたつ)。甲は十二支の最初の文字であり、物事のはじまりを意味している。この甲と辰が合わさる2024年は勢いよく活気溢れる年、上昇の勢いがあり、上昇していく年と言われている。

十二年に一度なのだし、なにか記念に新しい龍の作品を作ってみようと、昨年末からいろいろと試みたが、まったく納得いくものができない。なぜか龍を描こうとすると、線や形や色がわざとらしくなって気に入らない。描いては捨ててを繰り返し、とうとう嫌になってやめてしまった。他人が見てても、たぶん理由はわからないと思う。でも本人はなんとなくこのモヤモヤしたものの正体がわかっていた。

龍は幻獣であり、実在の動物ではない。イマージュそのものを描くには、内側から描かないと空々しくなる。物語が本質で、それを補う画力としてのアニメや漫画や映画ならそれでもよいが、本質から直接生まれ出る画(え)としては、此方から描くのではなく、彼方から来るのを待つしかない。

そしてすっかり諦めて、ただ自分が見たいものを自分のために作ろうとリスタートしてみると、なんだか楽になって、楽しんで作品を創ることができた。此方から強引に天岩戸を開けようとするのをやめて、すっかり諦めて肩の力を抜いて楽しそうにしていると、岩戸がすこしだけ開いて、創造神が顔を出してくれた。

具体的にいうと、以前作った 螺旋龍/双龍 を元に、重ね刷りと反転という二つのアレンジで映色してみた。すると納得できる作品ができた。難しいかと思っていた重ね刷りの神龍も、プリンターではなくハンコという手作業を組み合わせてイメージ通りに、黄龍 (こうりゅう)では黄金の蝶が舞いおりきてくれるという奇跡も起きてくれた(虫の知らせ)。陽射しが弱い季節だったので、神龍は薪ストーブによる炎の過熱で映色している。きっと火の神が力を貸してくれたのだろう。龍は水神だが、対極にある炎とは相性がよい。


 神龍
god dragon





黄龍
golden dragon



自分にとっての龍というのは、森の中にいたり、空に浮かんでいたりする色や形。空想でも妄想でもなく、絡まった蔦や、木の根っこ、空に浮かんだ雲や煙、ミミズや蛇、瀧や川の流れ、それらが組み合わさって内なる世界でひとつの意志を持ち、記憶の古層から生まれてくる自然神。一般的に龍は幻獣だが、自分の中には本物のリアリティとして実在する。



芸術はそれ(it)を表に現す方法して機能する。はっきりとした形ではないかもしれないけど、自然をよく観察して、見えない世界を創造してみてほしい。彼らはいつもそばにいる。

とここまで書いたときに突然大雨になり、雷鳴が轟いた。

昼間は夏のような陽射しの晴天だったのに。慌てて薪が濡れないように外に出ると、フラッシュのような一瞬の光が、天の瞬きのように暗闇の秘密を開示した。

敏感なカムイ(犬)は怯えて震えているが、なんだか雷鳴と雨の音がとても優しくて心地よい。こういうことは偶然ではないことを、経験として知っている。

それから一時間程度で止んだ雨。あまりにもあっけなく、あの激しい雷鳴はなんだったのか。龍使いねと言われたことがあるが、体感的にはまるで逆である。こちらの都合など無関係に使われている。それでいいし、それが望みだ。

※ shopにて購入可能です。〜4/15受付 4/16〜発送











2023年7月12日水曜日

ホワイトターラ/グリーンターラ


 ホワイトターラ
white tara


グリーンターラ
green tara







原画 紙に木炭





2023/6/29 午前中に一気にいい色が出た。最初のターラに虹がかかったとき、今日はいけると確信した。いまだに映色の条件は不明だけど、湿気が影響してるのかも。あとは天体、星の影響だけど、これは無意識に任せるしかない。とにかく頭で考えててもダメで、やってみないとわからない。だからおもしろい。


グリーンターラはまだすこし未完成、でもなにか強いポテンシャルを感じる。人はそれぞれに宇宙があり、恐るべきポテンシャル(可能性)を秘めている。その秘められた姿が、観音様の涙に現れている。

グリーンターラのイメージは蛍の光。映色はすごくデリケート。蛍の明滅のように、一枚の成功(出現)の奥に、幾多の失敗(消滅)がある。


映色を難しい順に並べると、黄金の樹(もう不可能)→無意識の海→水晶&自燈明→不動明王→バタフライエフェクト→螺旋龍→生命の樹→今のところ、お釈迦さまとホワイトターラが安定して出てる。ちなみに映色(はしょく)とは造語。偶然できたオリジナルの方法だから、自分で名前をつけるしかなかった。

自然に描いてもらうという方法は、探せばいくつかあるかもしれないけど、映色は世界で自分だけだと思う。こういう自分にしか出来ないことをしてると、たとえ誰からも評価されなくても、プライド(矜持)が満足する。これが魂を喜ばせる方法。矜持という器に、魂は満たされている。

自分にしかできないことというのは、なにか人とは違う特別なことをするという意味ではない。一匹の子猫を救うことも、その人にしかできないこと。基準を他人や世間や常識に委ねないで、自分自身の答えを探せばいいだけ。プライドのない人に、魂は満たされない。







2022年9月22日木曜日

自灯明



自灯明 midnight crystal

外寸 168×220mm
窓寸 900×130mm




2022年9月18日から19日にかけて、大型の台風が来た。なんの根拠もないけれど、台風が来ると、宇宙の何処かでも渦巻き銀河が生まれたんだろうなと思ってしまう。



渦を描いて大海を渡る龍、彼らは陸に上がると山々の神々と合流して、話し合い、川を降りる。彼らをなだめて、海に返しているのは山の神。そのとき彼らは、唯一人間の目に見えるエネルギー(水)に化身して、荒ぶる神としてその姿を現す。



どこか断線したらしく、深夜から昼前まで停電していたのだけど、困ったことはなにもなかった。外部情報から遮断されると、神さまに繋がりやすくなる。たまにはこういうのもいいよね、と目の前の空間を愛すれば、魂に灯がともる。闇が深ければ、内なる光で照らせばいい。それが釈迦の遺言、自灯明。

かげくらき 月の光をたよりにて しずかにたどれ 野辺の細道



2022年に入ってからの水晶は、例年とはまるで違う表情だった。とても不安定で、個体差が激しく、しかし魂に灯が灯ったような不思議な色だった。龍青(ドラゴンブルー)の美しさには敵わない。でもなにか感覚的に引っかかるものがあって、映色シーズン(春~夏)を過ぎても実験を継続していた。


9月に入ってから、数枚の水晶が白く発光するような光を浮かべていた。妙にグッときて心に刺さるのだけど、水晶が伝えようとしていることが、そのときはよくわからなかった。

しかし台風が来て、停電したあとにふっと気づいた。闇が深ければ、内なる光で照らせばい。そう、これは自灯明だと。


「宇宙や見えない世界の情報は、いつも圧縮ファイルで届く」

友人の作家さんが手紙に綴っていた言葉を思い出した。

「だからすぐにはわからないのだけど、それを魂で追っているときは、いつもわくわくする」

心に引っかかることは、わからないままに放置していても、ちゃんと無意識に保存されていて、迎え入れる準備が整えば、雪が解けるように、向こうからその秘密は開示される。

それを追うことで、魂は喜ぶ。

“I’m adventurer,looking for treasure,”  

『僕は宝物を探している冒険家なんだ』

わくわくするその先に、宝物がある。魂が喜ぶことをしていれば、どんな暗い道でも、内なる光が進むべき道を照らしてくれる。絶望して、深い闇に包まれたなら、自分が光になればいいのだ。




2022年7月10日日曜日

釈迦如来/不動明王


釈迦如来坐像
buddha


不動明王坐像
fudou




映色って不思議で、どんなモチーフでも写真をそのまま使うと綺麗に色が出ないのだけど、絵に描いてから映色すると、まるで生きているみたいに内側から色が滲み出てくる。一枚目が写真をそのまま印刷して映色したもの、二枚目が絵に描いてから映色したもの。見た目や条件が同じでも、これだけ差がある。


自分の手で線を描いていないと、祈りが届かないらしく、創造の神々は手を貸してくれない。デジタルデータに変換された後でも、ただ外側から見ることと、内側から描くことの違いは顕著に現れる。つまり精神は物質を超越していて、嘘や誤魔化しは通じない。


そしてあとから気づいて驚いたのは、原画は笑っていないのに、易紙に刷って映色した方のお釈迦様は、微笑んでいるように見えること。映色すると、すべてこうなる。不思議。



不思議(wonder)+いっぱい(ful)=素晴らしい(wonderful)。



陽射しの強いある日、火炎光背を背負った姿が現れた。budda→fudoへ。お釈迦様は不動明王に化身した。






 

螺旋龍/双龍


螺旋龍 阿
spiral dragon a

木材にガラス

  外寸 150×185mm
内寸 93×130mm



螺旋龍 吽
spiral dragon un

木材にガラス

  外寸 145×182mm
内寸 93×130mm





双龍
twin dragon

特殊加工樹脂フレームにガラス

  外寸 136×173mm×2
内寸 82×120mm×2












数年前から近所の里山のゴミを拾うようになった。投げ捨てが多い場所とは、つまり人目につかない場所。こういう場所ほど山の気は強く、神の視線を強く感じるのは不思議。なにもかもを見通すこの視線を浴びたくて、山の死角を散策してゴミを拾っていたら、蔦が何重にも絡まった一本の樹と巡り合った。蔦が珍しいわけではないけど、その絡み合いに強い生命力を感じて、なぜかその場から動けずにいた。それから何度も通ってスケッチした。





鉄媒染剤(お歯黒液)を染みこませた忌部紙に雨を打たせて、その上に蔦を描いていたら、描くつもりもなかった龍が絵の方から自然に浮き出てきた。螺旋を描きながら天地を昇降するエネルギー、それが龍であることを、無意識は知っていたのだ。





ある日、ふと思いついて描いた絵を易紙に刷って、残雪で映色してみたら最初の数枚から虹彩が出た。自分から生み出すのではなく、向こうから来る兆しを受け止めて自然に委ねると、精神と自然はひとつになろうと欲して渦を描く。色彩はその狭間に現れる虹。

その日は満月だった。きっと月の力で目覚めたのだろう。





春が来て、雨水による映色。陽射しを浴びて虹色に舞う双龍、二つの世界にまたがって広がる美しい幻影に見とれた。




何度も通ってモチーフと心を通わせるように、何度も実験を繰り返した。雨水と太陽の力を借りる映色実験は、うまく映える条件が不明で、今のところただ繰り返しやってみるしかない。突然よく虹が出たのは5/5周辺と6/21の夏至の日の周辺。個人的には宇宙線か暦が影響していると思うけど、気温も湿度も紫外線とも言えなくて、とにかくままならない。でもこういう自分ではコントロールできないのがいい。こうすればこうなるという予定調和よりも、どうなるかわからないようなトキメキ。本人がわくわくしていないと、無意識の力は起動しない。





数えきれないほど龍が溜まったけど、じつのところ9割は作品としては自立できない。その中の1割からも、これはなんか違うなぁと省かれて、はじめて作品は世に出ていく。この最後の1割から選ばれていく作業は、内的なものなので、他人が見ても基準がわからないと思う。無意識の海に沈んだ水晶のように、目には見えていない部分の方が本質。ただ作品とは、その人の内に眠る潜在力(龍)を目覚めさせる光であればいいのだ。