2022年7月10日日曜日

釈迦如来/不動明王


釈迦如来坐像
buddha


不動明王坐像
fudou




映色って不思議で、どんなモチーフでも写真をそのまま使うと綺麗に色が出ないのだけど、絵に描いてから映色すると、まるで生きているみたいに内側から色が滲み出てくる。一枚目が写真をそのまま印刷して映色したもの、二枚目が絵に描いてから映色したもの。見た目や条件が同じでも、これだけ差がある。


自分の手で線を描いていないと、祈りが届かないらしく、創造の神々は手を貸してくれない。デジタルデータに変換された後でも、ただ外側から見ることと、内側から描くことの違いは顕著に現れる。つまり精神は物質を超越していて、嘘や誤魔化しは通じない。


そしてあとから気づいて驚いたのは、原画は笑っていないのに、易紙に刷って映色した方のお釈迦様は、微笑んでいるように見えること。映色すると、すべてこうなる。不思議。



不思議(wonder)+いっぱい(ful)=素晴らしい(wonderful)。



陽射しの強いある日、火炎光背を背負った姿が現れた。budda→fudoへ。お釈迦様は不動明王に化身した。






 

螺旋龍/双龍


螺旋龍 阿
spiral dragon a

木材にガラス

  外寸 150×185mm
内寸 93×130mm



螺旋龍 吽
spiral dragon un

木材にガラス

  外寸 145×182mm
内寸 93×130mm





双龍
twin dragon

特殊加工樹脂フレームにガラス

  外寸 136×173mm×2
内寸 82×120mm×2












数年前から近所の里山のゴミを拾うようになった。投げ捨てが多い場所とは、つまり人目につかない場所。こういう場所ほど山の気は強く、神の視線を強く感じるのは不思議。なにもかもを見通すこの視線を浴びたくて、山の死角を散策してゴミを拾っていたら、蔦が何重にも絡まった一本の樹と巡り合った。蔦が珍しいわけではないけど、その絡み合いに強い生命力を感じて、なぜかその場から動けずにいた。それから何度も通ってスケッチした。





鉄媒染剤(お歯黒液)を染みこませた忌部紙に雨を打たせて、その上に蔦を描いていたら、描くつもりもなかった龍が絵の方から自然に浮き出てきた。螺旋を描きながら天地を昇降するエネルギー、それが龍であることを、無意識は知っていたのだ。





ある日、ふと思いついて描いた絵を易紙に刷って、残雪で映色してみたら最初の数枚から虹彩が出た。自分から生み出すのではなく、向こうから来る兆しを受け止めて自然に委ねると、精神と自然はひとつになろうと欲して渦を描く。色彩はその狭間に現れる虹。

その日は満月だった。きっと月の力で目覚めたのだろう。





春が来て、雨水による映色。陽射しを浴びて虹色に舞う双龍、二つの世界にまたがって広がる美しい幻影に見とれた。




何度も通ってモチーフと心を通わせるように、何度も実験を繰り返した。雨水と太陽の力を借りる映色実験は、うまく映える条件が不明で、今のところただ繰り返しやってみるしかない。突然よく虹が出たのは5/5周辺と6/21の夏至の日の周辺。個人的には宇宙線か暦が影響していると思うけど、気温も湿度も紫外線とも言えなくて、とにかくままならない。でもこういう自分ではコントロールできないのがいい。こうすればこうなるという予定調和よりも、どうなるかわからないようなトキメキ。本人がわくわくしていないと、無意識の力は起動しない。





数えきれないほど龍が溜まったけど、じつのところ9割は作品としては自立できない。その中の1割からも、これはなんか違うなぁと省かれて、はじめて作品は世に出ていく。この最後の1割から選ばれていく作業は、内的なものなので、他人が見ても基準がわからないと思う。無意識の海に沈んだ水晶のように、目には見えていない部分の方が本質。ただ作品とは、その人の内に眠る潜在力(龍)を目覚めさせる光であればいいのだ。